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【真作保証】 向井潤吉 中国風景 「北支大同北門」油彩3号 所定人鑑定書付 美術年鑑参考価格450万円
■本作には、所定鑑定人の浜田美芽(向井潤吉の娘)鑑定書が付いています。
■「開運!なんでも鑑定団|では向井潤吉の油絵が300万円という高額ハンマープライスを記録しました。
■「開運!なんでも鑑定団|では向井潤吉の水彩画が120万円という高額ハンマープライスを記録しました。
■モチーフの再現的なリアリズムと、絵画的な表現とが程よく馴染み、澄んだ空気感や湿度のような、視覚以外のエッセンスまでが含まれています。戦後の高度経済成長の中で次々にその姿を消していった民家を求め、誇張のない的確な写実表現によってありのままの姿を生き生きと写し取ってきた画は、中国で目にしたふとした情景にも、日本に似たものを感じ、つぶさにその光景を描いたに違いありません。
■本作の額装は、仁科一恵堂によるものです。
向井潤吉
「北支大同北門」(真作保証品)
●画面サイズ:(3号)27x22cm
●額サイズ:44x38cm
●技法:紙に油彩 右上に印章
●作品の状態:概ね良好です。紙に油彩ですので薄塗りです。また、額装時見えにくくなっていますが、紙縁に若干のヤブレと若干の紙欠がありますが、作品が制作されてより長い年月の経過した作品ですので必然の現象とご理解ください。制作年を考慮しましての概ね良好です
●美術年鑑参考価格:1号あたり150万円と記載されています。3号ですので,450万円ということになります。
【作者について】
藁葺き屋根の農家に古きよき日本の美を見い出し、一貫してリアリズムの道を歩み続けた向井潤吉。1901年(明治34年)京都府出身の画伯は、114年京都市立美術学校予科に入学しましたが、”16年に中退して関西美術院に4年間通い、そこで人物のデッサンと油彩画の基礎を学びました。'20年の二科展で『室隅にて』が初入選すると、家族に無断で上京し川端画学校に学びました。'27年には渡欧してルーブル美術館で名画の模写に没頭し、技法と表現の研究を重ね、パリを拠点に各国を巡りました。そして、帰国した'30年の二科展に『首飾と婦人』など滞欧作を特別陳列し樗賞を受賞、36年二科会会員に推挙されました。'37年従軍し戦争記録画を制作、39年昭和洋画で奨励賞を受賞、'41年二科会評議員に就任しました。戦後は二科会再建に加わらず、'45年に田中忠雄ら同士八人と行動美術協会を結成、以後は同展を中心に発表をしました。'45年には疎開先の新潟県川口村の農家を取材した『雨』を制作、生涯の主題として民家を描き続けました。'61年火災によりアトリエが消失、滞欧作40点を含む作品、スケッチ、文献資料など百数十点を失いました。しかしながら、その後も北海道から鹿児島まで全国各地を旅して古民家を求め制作しました。'93年には所有作品と自宅兼アトリエを世田谷区に寄贈し、世田谷美術館分館として向井潤吉アトリエ館が開館しました。作品は、東京国立近代美術館蔵、群馬県立美術館、富山県立美術館など全国各地に所蔵されています。
向井 潤吉(むかい じゅんきち、1901年(明治34年)11月30日 - 1995年(平成7年)11月14日)は、日本の洋画家。戦前から戦後にかけて活躍、40年以上に渡り北海道から鹿児島までを旅し、生涯古い民家の絵を描き続け「民家の向井」と呼ばれた洋画家であった。
生い立ち
京都市下京区仏光寺通に父・才吉と母・津禰の長男として生まれる。父はもともと宮大工の家柄で東本願寺の建築にも関わった。潤吉が物心ついた頃には、家で10人近い職人を雇い輸出向けの刺繍屏風や衝立を製造していた。
1914年(大正3年)4月、父と日本画を学ぶことを約して京都市立美術工芸学校予科に入学するが、2年後どうしても油絵が描きたくて父の反対を押し切って中退、家業を手伝いながらという条件で関西美術院で学んだ。沢部清五郎、都鳥英喜に師事。1919年(大正8年)、二科会第6回展に「室隅にて」で初入選。翌1920年(大正9年)5月、親に無断で上京し、半年ほど新聞配達で働きながら川端画学校に通うが、年内には再び京都に戻り黒谷境内の寺で下宿生活していた。
1921年(大正10年)には大阪高島屋呉服店図案部に勤務することになったが、同年12月に京都伏見深草歩兵第三十八連隊に入営。1923年(大正12年)に除隊となったため再び高島屋呉服店に勤務し、信濃橋洋画研究所に通った。1926年(大正15年)には第13回二科展に「葱の花」が入選し、その後も高島屋で勤務しながら二科展に続けて入選した。
フランス留学と戦争画
1927年(昭和2年)10月、当時最も安い経路だったシベリア鉄道を使いフランスのパリへ向かう。滞仏中は、午前中はルーブル美術館で模写、午後は自由制作、夜はアカデミー・ド・ラ・ショーミエールで素描をおこなうのが日課であった。潤吉は後年「私の如き貧乏の画学生には、費用のかからないそして自由に名画に接し得られる美術館での勉強はまことに有り難かった」と述懐している。模写した作品はヴェネツィア派からバロック絵画にかけての作品が目に付く他、コローの作品が多い。その一方で、スーティンやココシュカを想起させる荒々しい筆触の作品も描いており、フォーヴィスムへの接近を色濃く感じさせる。
3年後の1930年(昭和5年)に帰国し、模写の展覧会を開く。同年結婚、また、第17回二科展に「力土達」等11点を特別出品して樗牛賞を受ける。1933年(昭和8年)、東京都世田谷区弦巻に転居し、以後没年まで居住する。同年に二科会会友、さらに1936年(昭和11年)に二科会会員に推挙され新会員として迎えられる。
1937年(昭和12年)、個人の資格で中国の天津、北京、大同方面に従軍。1938年(昭和13年)、大日本陸軍従軍画家協会が設立されると、潤吉も会員となり戦争画や外地の風景を描く。
1939年(昭和14年)には陸軍美術協会の設立に向けた発起人に名を連ねた。 同年、二科展に出品した『甦民』は300号近い大作で、華北で和平楽土を建設しようとする369人の姿を描いたものとなった。
1940年(昭和15年)、紀元2600年奉祝展に「黄昏」を出品し、この作品で昭和洋画奨励賞を受賞。1941年(昭和16年)に二科会評議員となり、同年11月には国民徴用令により比島派遣渡集団報道班員としてフィリピンに赴く。向井のフィリピン赴任の約2カ月後には報道班員として火野葦平が加わり(向井は1940年12月から朝日新聞で連載された火野の小説「美しき地図」の挿絵を担当)、約240日間、報道班員としてともに行動し親交を深めた。
1944年(昭和19年)4月、大本営は特別報道班員派遣を企画し、文壇から火野葦平、画壇から宮本三郎、楽壇から古関裕而を指名していたが、宮本が出発前日に急病となったため向井に急遽交代することとなった。ラングーン到着後、火野と向井は先に現地の様子を見に行くことになったが、7月4日に大本営はインパール作戦の中止を発表したため、二人はライマナイから撤退してマンダレーで古関と合流し、向井は8月に帰国した[2]。
帰国後は軍需生産美術推進隊隊員として、各地の炭坑で制作を続けた。
第二次世界大戦終結後、向井の描いた戦争画4点『四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)』、『マユ山壁を衝く』、『バリッドスロン殲滅戦』、『水上部隊ミートキイナの奮戦』は連合国軍最高司令官総司令部に軍国主義的なものであるとして没収され、他の戦争画とともにアメリカ合衆国に持ち出された。1970年、他の戦争画とともに無期限貸与という形で日本に返還され東京国立近代美術館に収蔵されている。
戦後、「民家の向井」
戦争末期、爆撃のためしばしば防空壕に逃れる生活をするなか、ふと手にとった図録から民家の美しさに気付き、戦火のなか失われようとする美しいものを絵に残したいという思いを強くしていった。終戦後に再興した二科会には参加せず、1945年(昭和20年)に行動美術協会を結成して創立会員となった。同年秋、新潟県川口村で取材した作品「雨」(個人蔵)を制作、以後生涯の主題として草屋根の民家を描き続ける。しかし、初期の頃は労働や生活の現場を画面に取り込んだ作風を見せ、いかにも潤吉らしい民家作品としての作風が確立するのは昭和30年代に入ってからのようである。
世田谷区弦巻町に1933年(昭和8年)から居住しており、1982年(昭和57年)に世田谷区名誉区民となった。1992年(平成4年)に自宅を兼ねたアトリエとその土地、ならびに300余点の作品を世田谷区に寄贈したのを受け、世田谷美術館の分館として向井潤吉アトリエ館が設置された。1995年(平成7年)、急性肺炎のため自宅で逝去。93歳没。
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(2025年 2月 28日 0時 06分 追加)
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